木曾左馬頭、その日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒締め、厳物作りの大太刀はき、
木曾左馬頭は、その日の装束としては、赤地錦の鎧直垂に、唐綾威の鎧を着て、鍬形を打ちつけた甲のひもを締め、堂々と見える大太刀を腰にさげ、
石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを、頭高に負ひなし、
石打ちの矢で、その日の戦で射て少し残った矢を頭高に背負い、
石打ちの矢の…同格の格助詞。「~矢で~」と訳す。
滋籐の弓持つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめて太うたくましいに、黄覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。
滋籐の弓を持ち、有名な木曾の鬼葦毛という馬で、たいそう太ってたくましい馬に、黄覆輪の鞍を置いて乗っていた。
鬼葦毛といふ馬の…同格の格助詞
鐙ふんばり立ち上がり、大音声をあげて名のりけるは、
馬上で鐙を踏んばって立ち上がり、大音声をあげて名のったことには、
「昔は聞きけんものを、木曾の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや。
「昔は聞いたであろうが、木曾の冠者(という勇猛な少年)のことを、そして今こそ、その姿を(お前たちは)目の前に見ているであろう。(それが私)左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲であるぞ。
甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。義仲討つて兵衛佐に見せよや。」とて、をめいて駆く。
(そこの軍勢は)甲斐の国の一条次郎と聞いた。互いに好敵手だ。この義仲を討って、兵衛佐頼朝に見せよ。」といって、大声をあげて馬を走らせる。
一条次郎、「ただいま名のるは大将軍ぞ。あますな者ども、もらすな若党、討てや。」とて、大勢の中に取りこめて、我討つ取らんとぞ進みける。
一条次郎は、「今名のるのは敵の大将軍だ。お前たち、敵を討ち残すな。若者どもよ、敵を討ちもらすな。討て。」といって、大勢の中に取り囲んで、我こそは(義仲を)討ち取ろうと進んだ。
木曾三百余騎、六千余騎が中を縦さま・横さま・蜘蛛手・十文字に駆けわつて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。
木曾の三百余騎は、敵の六千余騎の中を、縦・横・蜘蛛手・十文字に走り抜け、敵のうしろへずっと出ると、(味方は討ち減らされて)五十騎ほどになっていた。
そこを破つて行くほどに、土肥二郎実平、二千余騎でささへたり。
そこを打ち破って行くうちに、土肥二郎実平が二千余騎で守っていた。
それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりが中を、駆けわり駆けわり行くほどに、主従五騎にぞなりにける。
それをも打ち破って行くうちに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ほどというように守る敵の中を、次々に突破して行くうちに、(味方は)主従五騎だけになってしまった。
五騎がうちまで巴は討たれざりけり。
その五騎に減るまで、巴は討たれないのであった。
木曾殿、「おのれは、疾う疾う、女なれば、いづちへも行け。我は討死せんと思ふなり。
木曾殿は巴に、「お前は、早く早く、女だから、どこへでも行け、私は討死しようと思うのだ。
もし人手にかからば自害をせんずれば、
もし人手にかかったら自害をするつもりなので、
木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど言はれんことも、しかるべからず。」とのたまひけれども、
(死後に)木曾殿は最後の戦いに、女をお連れになっていたなどと言われるのもよろしくない。」とおっしゃったけれども、
なほ落ちも行かざりけるが、
(巴は)それでも落ちのびて行かなかったが、
あまりに言はれ奉つて、「あつぱれ、よからう敵がな。最後のいくさして見せ奉らん。」とて、控へたるところに、
(木曾殿から)あまりに言われ申し上げて、「ああ、(戦うに)よい敵がほしい。最後の戦いをしてお見せ申し上げよう。」と、(馬を止めて)待ちかまえている所へ、
武蔵の国に聞こえたる大力、御田八郎師重、三十騎ばかりで出で来たり。
武蔵の国で評判の大力(の持ち主)、御田八郎師重が、三十騎ばかりで出てきた。
巴その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べて、むずと取つて引き落とし、我が乗つたる鞍の前輪に押しつけて、ちつとも働かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。
巴はその中に駆け入り、御田八郎に(馬を)押し並べて、むんずと組んで引き落とし、自分の乗っていた馬の鞍の前輪に(相手の体を)押しつけて、少しも身動きさせず、その首をねじり切って捨ててしまった
その後、物具脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎討死す。手塚別当落ちにけり。
その後、鎧甲を脱ぎ捨てて、東国の方へ落ちのびて行く。(先刻の五騎のうちの)手塚太郎は討ち死にした。また手塚別当は落ちのびて行った。
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