薩摩守のたまひけるは、「年ごろ申し承つて後、おろかならぬ御ことに思ひまゐらせ 候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。
薩摩守がおっしゃったことには、「長年の間、和歌をお教えいただいて後は、大切なことにと思い申しておりますけれども、この二、三年は、京都の騒ぎや国々の反乱、すべて平家の身の上のことでございますので、(歌道を)おろそかに思っていたわけではありませんが、いつも参上することもできませんでした。
○長年申し承って…忠度が何年も和歌の指導を俊成から受けたこと。
○おろかならぬ御こと…忠度が俊成のことを並一通りではない大切なものに思っている。(和歌のことを、ととることもある。)
・おろかなり…おろそかだ、いい加減だ。
・まゐらす…謙譲の補助動詞。
・しかしながら…すべて、ことごとく。
○当家…平家のこと。
・疎略…おろそかに扱うこと
・存ず…存じます、思います。(「思ふ」の謙譲語)
君すでに都を出でさせ たまひ ぬ。一門の運命はや尽き候ひ ぬ。
安徳天皇はすでに都をお出でになりました。平家一門の運命はもはや尽きてしまいました。
○君…安徳天皇のこと。平家とともに都落ちし、その後入水して亡くなった。
○一門の~…平家の運命はすでに尽きたことを悟り、自身の死も覚悟している。
撰集のあるべき由承り 候ひ しかば、生涯の面目に、一首なりとも御恩を蒙らうど存じ て 候ひ しに、やがて世の乱れ出できて、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存じ 候ふ。
(勅撰集の)撰集があるだろうということをお聞きしておりましたので、生涯の名誉として、一首であっても(勅撰集に自分の歌を入れていただくという)ご恩情を賜りたいと考えておりましたのに、すぐに世の中に戦乱が起こって、その沙汰(撰集)がなくなったことは、この上ない嘆きと思っております。
・勅撰集…天皇の命令によって編纂された歌集。藤原俊成は勅撰集を編纂する立場だった。
・承る…お聞きする(「聞く」の尊敬語)
〇御恩を蒙ら…俊成の恩情を受けて、勅撰集に自分の歌を入れてもらうこと。
世静まり候ひ な ば、勅撰の御沙汰候は んず らん。
世の中が静まりましたならば、勅撰集の御指示があるでしょう。
・~んずらむ…~だろう
これに候ふ巻物のうちに、さりぬ べきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙つて、草の陰にてもうれしと存じ 候はば、遠き御守りでこそ 候は んずれ。」とて、
ここにあります巻物の中に、ふさわしい歌がございましたら、一首でもご恩情を賜り(入集していただいて)、草葉の陰ででもうれしく思うことができますれば、遠いあの世から、末長く(あなたを)お守りする者としておりましょう。」と言って、
・草の陰にて…墓の下で、あの世で。
日ごろ詠みおかれ たる歌どものなかに、秀歌とおぼしきを百余首書き集められ たる巻物を、今はとて打つ立たれ ける時、これを取つて持たれ たり しが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。
普段詠んでおかれていた多くの歌の中で、秀歌と思われるものを百首あまり書き集められていた巻物を、「今は(これまで)」と思って出発された時、これを取って持っておられたが、それを鎧の引き合わせから取り出して、俊成卿に差し上げる。
・奉る…差し上げる(「与ふ」の謙譲語)