鴻門の会から四年後、力関係は逆転し、項羽は沛公の漢軍に追われることとなった。
項王軍壁垓下。兵少食尽。漢軍及諸侯兵、囲之数重。
項王の軍垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重なり。
項王の軍は垓下で城壁の内に立てこもった。兵力は少なく食料も尽きた。漢軍と諸侯の兵が、幾重にもこれを取り囲んだ。
・壁…城壁に立てこもる。※動詞として使われている。
夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。」
夜 漢軍四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰はく、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや。」と。
夜に漢軍が全方向から楚の歌を歌うのを聞き、項王がそこでたいそう驚いて言うことには、「漢軍はすっかり楚の地を手に入れてしまったのか。なんと楚の人が多いことか。」と。
・乃…「すなはチ」そこで
・已…「すでニ」
・~乎…~か。(疑問)
・何~也…「何ぞ~や」なんと~なことよ。(詠嘆)
※疑問と同じ形で、詠嘆を意味することもある。
○楚は項王の故郷。敵軍が楚の歌を歌っているのを聞いて、項王は自分の故郷の人々も敵側になってしまったのかと驚いた。
項王則夜起飲帳中。
項王則ち夜起きて帳中に飲む。
項王はそこで夜に起きて陣営の幕の中で酒を飲んだ。
○項王は死を覚悟して、最後の戦いを起こすために宴会を開いた。
有美人、名虞。常幸従。
美人有り、名は虞。常に幸せられて従ふ。
美しい女性がいて、名を虞といった。常に(項王に)寵愛されて従っていた。
・幸…寵愛する
※「虞」が主語なので、受身「こうセラレテ」と読み、「(項王に)寵愛されて」と訳す。
駿馬、名騅。常騎之。
駿馬あり、名は騅。常に之に騎す。
駿馬がいて、名は騅といった。(項王は)常にこれに騎乗していた。
於是項王乃悲歌忼慨、自為詩曰、
是に於いて項王乃ち悲歌忼慨し、自ら詩を為りて曰はく、
そこで項王が悲しげに歌い、気持ちを高ぶらせて、自分で詩を作って歌うことには、
・「為」…いろいろな意味があるが、ここでは「つくル」と読む。
力抜山兮気蓋世 時不利兮騅不逝
力は山を抜き気は世を蓋ふ 時利あらず騅逝かず
(自分の)力は山を引き抜くほどであり、気力は世界を覆い尽くすほどである。
(しかし)時運に恵まれず、騅は前に進もうとしない。
・兮…置き字。語調を整えたり、強調を示す働き。
〇時不利…自分の力は十分にあったが、時の運にめぐまれず天下を取ることができなかったということ。
騅不逝兮可奈何 虞兮虞兮奈若何
騅の逝かざる奈何すべき 虞や虞や若を奈何せん
騅が前に進まないのをどうすることができようか。
虞よ、虞よ、お前をどうしようか(いや、どうしようもない)。
・奈何…どうすればよいか
・奈A何=「Aを奈何せん」…Aをどうしようか、(いやどうしようもない)。
押韻…「世」と「逝」、「何」と「何」。 (押韻のルールが絶句や律詩と異なっている。)
詩の形式…七言古詩。 ※「絶句」「律詩」は唐の時代に出来たもので、この時代にはまだない。
歌数闋、美人和之。項王泣数行下。
歌ふこと数闋、美人之に和す。項王泣数行下る。
歌うこと数回、虞美人がこれに唱和した。項王は幾筋も涙を流した。
左右皆泣、莫能仰視。
左右皆泣き、能く仰ぎ視るもの莫し。
側近たちは皆泣き、顔を上げて(項王を)見ることができる者はいなかった。
・左右…側近の部下
・莫=無