源義仲は平家を越中(富山県)の倶利伽羅谷で破り、都へ攻め上る。平家は都を捨てて西へ向かった。平家である忠度も都から去ったはずであった。
薩摩守忠度は、いづくよりや帰られ たり けん、侍五騎、童一人、我が身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見たまへば、門戸を閉ぢて開かず。
薩摩守忠度は、どこから帰ってこられたのだろうか、侍五騎と童一人、わが身と合わせて七騎で引き返し、五条の三位俊成卿の屋敷にいらっしゃってご覧になると、門の扉を閉じていて開かない。
・いづくよりや帰られたりけむ…作者の感想が挿入されている。
「忠度。」と名のりたまへば、「落人帰り来たり。」とて、その内騒ぎあへり。
「忠度(が参りました)。」と名乗りなさると、「落人が帰ってきた。」と言って、屋敷の内は騒ぎ合っている。
・落人…戦に負けて逃げていく人のこと。平家は義仲に追われて都を出た。
○敗れて都から逃げていった落人の忠度が帰ってきたので、忠度が暴れまわるのではないかと恐れて騒いでいる。
薩摩守馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、この際まで立ち寄らせ たまへ。」とのたまへば、
薩摩守は馬から下り、自ら声高らかにおっしゃることには「(私が参ったのは)特別な事情があるわけではありません。三位殿(俊成)に申し上げたいことがあって、忠度が帰って参りました。門をお開けにならないとしても、この門の近くまでお立ち寄りください。」とおっしゃると、
・のたまふ…おっしゃる(「言ふ」の尊敬語)
・別の子細候はず…特別な事情があるわけではありません。「候ふ」は丁寧語で、忠度から、屋敷内の人々に対する敬意。
○忠度は、対面がかなわないとしても、せめて俊成に声の聞こえるところに来てもらって、話をしたいと思っている。
俊成卿、「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」とて、門を開けて対面あり。事の体何となうあはれなり。
俊成卿は、「(忠度が帰って来られたのは)しかるべき事情があるのだろう。その人(忠度)ならば差し支えはないだろう。お入れ申し上げろ。」と言って、門を開けてお会いになった。その場の様子は、すべてにわたってなんとなく感慨深いものである。
・さること…忠度が戻って来た事情。
○忠度の人柄を知っている俊成は、忠度が自身の死を覚悟し最後のあいさつに来たことを感じ取り、門を開けて対面した。