ここまでの流れ
前221年秦が天下を統一した。(秦の始皇帝は有名)
しかし、やがてその圧政に人々は苦しむようになり、前209年、二代目皇帝のときに反乱がおきた。(陳勝・呉広の乱)秦を倒そうとする多くの将の中でも次第に、沛公(劉邦)と項羽の二人が力をつけてきた。
前206年、項羽が秦の都・咸陽に攻め込もうとして函谷関にたどりつくと、沛公の兵が関を守っていて進むことができなかった。実は沛公がすでに咸陽を攻め落としていたのだ。項羽は、沛公が関中(咸陽のあった一帯の地域。四つの関所の中にある)の地で王になろうとしていることに激怒した。項羽の兵力は40万、沛公の兵力は10万。部下の范増の進言もあり、沛公を攻撃しようとした。
沛公、旦日従百余騎、来見項王。
沛公、旦日百余騎を従へ、来たりて項王に見えんとす。
沛公は、翌朝、百騎余りの部下を引き連れて、項王にお目にかかろうとした。
・旦日…翌朝。この前の部分で項伯が沛公のもとにやって来て、項羽に謝罪することを勧めるとともに、項羽には沛公を討つべきでないことを説いていた、その翌朝。
・見…「まみユ」と読む場合は謙譲語「お目にかかる」の意味
至鴻門、謝曰、「臣与将軍戮力而攻秦。将軍戦河北、臣戦河南。
鴻門に至り、謝して曰はく、「臣 将軍と与に力を戮はせて秦を攻む。将軍は河北に戦ひ、臣は河南に戦ふ。
鴻門にやって来て、謝罪して言うことには、「私は将軍とともに力を合わせて秦を攻めました。将軍は黄河の北で戦い、私は黄河の南で戦いました。
・謝…謝罪する。※「謝」は他にも「感謝する」「衰え去る」「断る、謝絶する」などの意味がある。
・臣…沛公を指す。 「臣」は君主に対する、臣下の自称、「私」の意味。
・将軍…項王を指す。
〇沛公は自分を「臣」と呼んでへりくだり、項王を「将軍」と呼んで敬うことで、項王の怒りをおさえようとした。
・臣 与 将軍…「臣 将軍と」。「与」は様々な読み方があり、ここでは「と」と読む。
・河…黄河を指す
然不自意、能先入関破秦、得復見将軍於此。
然れども自ら意はざりき、能く先に関に入りて秦を破り、復た将軍に此に見ゆるを得んとは。
しかしながら、自分でも思いもよりませんでした、(私のほうが)先に関中に攻め入って秦を破ることができ、再び将軍とこの地でお目にかかれようとは。
・然…「しかレドモ」と読む場合は逆接「しかし」の意味。
・不自意…「意」は「おもふ」と読み、「意図する、考える、思う」の意味。
・「能」…「よク」と読み、「~できる」の意味。
・「得」…「(機会があって)~できる」の意味
・此…鴻門の地
今者有小人之言、令将軍与臣有郤。」
今者小人の言有り、将軍をして臣と郤有らしむ。」と。
今、つまらない者の告げ口があり、将軍を私と仲たがいさせようとしています。」と
・今者…あわせて「いま」と読む。
・小人之言…徳のないつまらない人物の告げ口。
※曹無傷が項王に「沛公が関中で王になろうとしている」と告げ口していた。
・令AB…使役「AをしてBしむ」AにBさせる。ここでは「A=将軍」「B=与臣有郤」
・郤…仲たがい
〇沛公は項羽に対し、自分に王になる意志はないと言い訳をしている。
項王曰、「此沛公左司馬曹無傷言之。
項王曰はく、「此れ沛公の左司馬 曹無傷 之を言ふなり。
項王は、「そのことは沛公の左司馬である曹無傷が言ったのである。
・左司馬…軍事をつかさどる役職。
・曹無傷…沛公の部下
※曹無傷は沛公の部下であるが、沛公を裏切り、項王側につこうとして沛公の悪口を項王に告げた。
不然、籍何以至此。」
然らずんば、籍 何を以つてか此に至らん。」と。
そうでなければ、私はどうしてこのような状況(沛公を攻撃しようとすること)に至ろうか、いや至らない。」と言った。
・不然…「然らずんば」そうでないならば。
・籍…項羽の名。
・何以…「何を以て(か)」と読み、理由を問う「どうして~」。ここでは反語。
・此…この状況、項王が沛公を攻撃しようとすることを指している。