その宮は、いとあてにけけしうおはします なるは。昔のやうには、えしもあらじ。」など言へば、
その帥の宮様は、たいそう気品があってよそよそしくいらっしゃるそうですね。昔(亡き為尊親王)のように(気楽にお仕えすることは)できないでしょう。」などと言うと、
・あてなり…高貴だ、上品だ。
・けけし…よそよそしい、そっけない。
・えしもあらじ…「じ」は打消推量の助動詞。「え~打消」で「~できない」。「しも」は強意の副助詞。
「しかおはしませど、いと気近くおはしまして、
(童は)「そう(気品がある方)ではいらっしゃいますが、(私にとっては)たいそう親しみやすくいらっしゃって、
・しか…そう、そのように。ここでは「あてにけけしう」を指す。
『常に参るや。』と問はせ おはしまして、『参り 侍り。』と申し 候ひつれば、
(帥の宮が)『(おまえは和泉式部のところに)いつも伺うのか。』とお尋ねになって、(私=童が)『伺います。』と申し上げましたところ、
○敬語(誰から誰へ)に注意。
『これ持て参りて、いかが見給ふとて奉ら せよ。』とのたまはせつる。」とて、
(帥の宮が)『(和泉式部のところに)これを持って参上して、どのように覧になるかと言って差し上げなさい。』とおっしゃいました。」と言って、
橘の花を取り出でたれば、「昔の人の。」と言はれて、
橘の花を取り出したので、「昔の人の」と自然に口から出て、
○「昔の人の」…古今和歌集・伊勢物語にある歌
五月待つ 花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
五月を待って咲いた橘の花の香りをかぐと、昔の人のお香をたきしめた袖の香りがする(なつかしいあの人のことを思い出す)
○作者は橘の花を見たことでこの歌を連想し、亡くなった為尊親王のことをなつかしく思い出した。
〇帥の宮は、この歌を連想させる橘の花を贈ることで、為尊親王の兄弟である自分に親しみをもたせようとしたか。
「さらば、参り な む。いかが聞こえさすべき。」と言へば、
(童が)「それでは(帥の宮様のところへ)参りましょう。どう(返事を)申し上げたらよいでしょうか。」と言うので、
言葉にて聞こえさせむもかたはらいたくて、何かは、あだあだしくもまだ聞こえ給は ぬを、はかなきことをもと思ひて、
口頭で申し上げるのも気が引けるし、なあに、(帥の宮様は)浮気な方との評判もまだ立っていらっしゃらないのだから、とりとめのない和歌でも、と思って、
・かたはらいたし…気が引ける、みっともない。
・何かは…いやなに。何の問題があろうか、いやないだろう。
・あだあだし…浮気だ、不誠実だ。
・聞こえ…動詞「聞こゆ」:うわさになる、評判になる。
・はかなし…ちょっとした。
作者は、多少大胆に歌を贈っても問題ないだろうと考え、自分を正当化している。
薫る香によそふるよりは時鳥聞かばや同じ声やしたると
と聞こえさせたり。
橘の薫る香にかこつけて亡き宮様(為尊親王)をしのぶよりは、ほととぎすのお声がききたいものです。亡き宮様と同じ声をしているのかと。
とお返事申し上げた。
○薫る香によそふる…橘の薫る香に関連付けて、亡くなった宮をなつかしみ、しのぶこと。
・未然形+ばや…希望の終助詞(~たい)。
〇「ほととぎす」は「帥の宮」をたとえたもの。亡き宮の兄弟である帥の宮の声が聞きたい、つまりあなたにお会いしたい、ということを示す歌になっている。女性の側からこのような誘惑する歌を贈るという大胆なことをしている。
※「はかなきこと」とあるように、この時点で本気で帥の宮との恋愛を期待していたわけではないだろうが、新たな恋を予感させる歌ではある。恋人をなくし沈んでいた作者の前に、帥の宮は活力をあたえてくれる存在として現れた。