光源氏は、わらわ病(マラリヤのようなもの)にかかり、まじないや祈祷(当時の治療法)をしたがなかなか治らなかった。北山の寺にすぐれた僧がいると聞き、治療のため北山にやってきた。
窮屈な普段の生活から解放された光源氏は、小柴垣を巡らした家に女たちの姿が見えるという話を聞き興味を持った。
日もいと長きに、つれづれなれば、夕暮れのいたう霞み たる にまぎれて、かの小柴垣のもとに立ち出で 給ふ。
日もたいそう長いうえに、することもなく退屈なので、(光源氏は)夕暮れのたいそう霞んでいるのに紛れて、例の小柴垣のもとにお出かけになる。
・つれづれなり…することがなく暇だ
・かの小柴垣…この前の場面で、供の者が、小柴垣を巡らした家に女たちの姿が見えると話していた。
人々は返し 給ひ て、惟光の朝臣とのぞき 給へ ば、ただこの西面にしも、持仏据ゑ奉りて行ふ、尼 なり けり。
(光源氏は)お供の供の者たちはお帰しになって、惟光の朝臣とおのぞきになると、ちょうどこの(目の前の)西向きの部屋に、持仏をお据え申し上げて勤行をする、尼なのであった。
・惟光…一番仲のいい部下。
・人々は返し…人目を避けるために、供の者は帰らせた。
・西面にしも…西向きの部屋。「しも」は強意の副助詞。
・持仏据ゑ奉りて…謙譲の補助動詞。作者から持仏への敬意。持仏とは、居室に置いたり、身に所持したりして信仰する仏像。
・行ふ…仏道修行する、勤行する。連体形で下に「人は」などを省略している。
・尼なりけり…「けり」は詠嘆。尼は若紫の祖母。
○これ以降、光源氏の視点からの描写が続く
簾少し上げて、花 奉る めり。中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いと悩ましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。
簾を少し上げて、花をお供えするようである。中央の柱に寄りかかって座り、脇息の上に経を置いて、ひどくだるそうに読経している尼君は、並の身分の人とは見えない。
・奉る…謙譲語「差し上げる、お供えする」作者から持仏への敬意。
・めり…推定婉曲の助動詞。視覚でとらえたことによる推定・婉曲を意味する。
・寄りゐて…寄りかかって座って
・脇息…ひじをかけ、体をもたせかけて休む道具。
・悩ましげなり…気分が悪く苦しそう。
・ただ人…普通の身分の人。 →ただ人と見えず…普通の人ではなく、高貴な身分の人に見えた。
四十余ばかりにて、いと白うあてに痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかな、とあはれに見 給ふ。
(その尼は)四十を過ぎくらいで、たいそう色白で上品で痩せているけれども、頰の辺りはふっくらして、目もとの辺りや、髪がかわいらしげに切りそろえられている端も、かえって長いものより格別に当世風なものであるよ、と(光源氏は)しみじみと趣深くご覧になる。
・うつくしげなり…愛らしい、いとおしい
・なかなか…かえって
・こよなし…この上ない、格別だ
・今めかし…現代風でよい、当世風だ
※髪は長いほど美しいとされていたが、尼君の髪が肩の辺りで切りそろえられているのが、かえってよいと感じた。
○見給ふ…尊敬の補助動詞。作者から光源氏への敬意。 尼君の様子を見ているのは光源氏。
清げなる大人二人ばかり、さては、童べぞ出で入り遊ぶ。
こぎれいな年配の女房が二人ほど、それから女の童が出入りして遊んでいる。
中に、十ばかり に や あら む と見えて、白き衣、山吹など の なれたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えて、うつくしげなるかたちなり。
その中に、「十歳くらいであろうか」と見えて、白い下着に、山吹襲の上着などでなじんでいる上着を着て、走ってきた女の子は、大勢見えていた子どもたちとは比べようもなく、成人後の美しさが思いやられて、かわいらしい容貌である。
・山吹などのなれたる…「の」は同格。「山吹襲などの上着で身になじんでいる上着を」
女子…これが「若紫」(後の「紫の上」)。
・生い先見えて…成人後の美しさが思いやられる
髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。
髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔は手でこすってひどく赤くして立っている。
「何ごとぞや。童べと腹立ち給へるか。」とて、尼君の見上げたるに、少しおぼえたるところあれば、子なめりと見給ふ。
「何事ですか。子どもたちとけんかをなさったのか。」と言って、尼君が見上げている顔に、少し似ているところがあるので、(尼君の)子であるようだと(光源氏は)ご覧になる。
・おぼゆ…似ている。
※光源氏は、尼君の子だと思ったが、実際は孫。
・なめり…~であるようだ。
※断定の助動詞「なり」の連体形「なる」の撥音便「なん」の「ん」の無表記
+推定の助動詞「めり」終止形
(「なるめり」→「なんめり」→「なめり」)
・見給ふ…尊敬語。作者から光源氏への敬意。
「雀の子を犬君が逃がしつる、伏籠のうちに籠めたりつるものを。」とて、いと口惜しと思へり。
(女の子は)「雀の子を犬君が逃がしてしまった、伏籠の中に閉じ込めておいたのに。」と言って、たいそう残念だと思っている。
・犬君…女の子の遊び相手。
○~ものを…~のに、~のになあ
このゐたる大人、「例の、心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。
そこに座っていた年配の女房が、「いつものように、うっかり者(=犬君)が、このようなことをして、責められることは、とても気に入らない。
・例の…いつものように
・心なし…うっかりもの。犬君をさす。
・心づきなし…気に入らない
いづ方へかまかりぬる、いとをかしうやうやうなりつるものを。
(雀の子は)どこへ行ったのか、本当にかわいらしくだんだんなってきたというのに。
・まかりぬる…「まかる」には謙譲語の用法があるが、これは「行く」を丁寧な言い方にしたもの。
○ものを…~のに、~のになあ
烏などもこそ見つくれ。」とて立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。
烏などが見つけたら大変だ。」と言って立って行く。髪がゆったりとしてとても長く、(見た目の)感じがよい人であるようだ。
○もこそ…~たら困る、大変だ。
・めやすし…見苦しくない、感じがよい。
○なめり…断定の助動詞「なり」の連体形「なる」の撥音便「なん」の「ん」の無表記+推定の助動詞「めり」終止形(「なるめり」→「なんめり」→「なめり」)
少納言の乳母とぞ人言ふめるは、この子の後ろ見なるべし。
少納言の乳母と人が呼んでいるらしいこの人は、この子の世話役なのであろう。
・ぞ…結びの流れが生じている。
尼君、「いで、あな幼や。言ふかひなうものし給ふかな。
尼君は、「本当にまあ、なんと幼いこと。子どもっぽくていらっしゃいますね。
・あな幼や…ああ幼いことよ。 「あな+形容詞の語幹」で「ああ~だなあ」の意味。「幼」は形容詞「幼し」の語幹。
・言ふかひなし…子供っぽい、たわいない
・ものし給ふ…「ものす」はここでは形容詞「言ふかひなし」につく補助動詞で「~である」の意味。「給ふ」は尊敬の補助動詞。尼君から女子(若紫)への敬意。
・かな…詠嘆の終助詞。「~なあ、ことよ」
おのがかく今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひ給ふほどよ。
私のこのように今日明日と思われる命を、何ともお思いにならないで、雀と遊びなさることよ。
・おの…私(尼君)
・今日明日におぼゆる命…病気のため、もうすぐ死ぬだろういうこと。
・思し…尊敬語。尼君から女子(若紫)への敬意。
・~で…「未然形+で」は「~ないで」の意味。
罪得ることぞと常に聞こゆるを、心憂く。」とて、「こちや。」と言へば、ついゐたり。
(生き物を捕らえるのは)仏罰を受けることですといつも申し上げておりますのに、情けないこと。」と言って、「こちらへ。」と言うと、(女の子は)膝をついて座った。
・聞こゆ…謙譲語「申し上げる」。尼君から女子(若紫)への敬意。
・心憂し…つらい、なさけない。
つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。
顔つきがとてもかわいらしくて、眉の辺りがぼんやりとして、あどけなく髪を払いのける額の様子、髪の生えぐあいが、とてもかわいらしい。
・らうたげなり…かわいらしい
・いはけなし…あどけない、幼い
・うつくし…かわいらしい、愛らしい
ねびゆかむさまゆかしき人かな、と目とまり給ふ。
(光源氏は)これから成人していく様子を見ていたい人だなあ、と目がとまりなさる。
・ねびゆく…成長する、成人する
・ゆかし…見たい
〇「ねびゆかむさまゆかしき」…本文前半の「いみじく生ひ先見えて」と同じような表現。光源氏はこの女の子に注目してしまう。
さるは、限りなう心を尽くし聞こゆる人に、いとよう似奉れるが、まもらるるなりけり、と思ふにも涙ぞ落つる。
それというのも、このうえなく心を尽くしてお慕い申し上げるお方(=藤壺)に、(この女の子が)とてもよく似申し上げていることが、思わず(この女の子を)見つめてしまう(理由な)のだなあ、と思うにつけても(光源氏は)涙がこぼれる。
○限りなう心を尽くし聞こゆる人…藤壺の宮を指す。光源氏がずっと恋い慕っている人物。父桐壺帝の妻であり、簡単に会うこともできない。
藤壺について
光源氏の母(桐壺更衣)は、光源氏を生んだ後まもなく亡くなってしまう。桐壺帝(光源氏の父)は悲しみ、桐壺更衣ととてもよく似た美しい藤壺の宮を妻としてむかえた。
母・桐壺更衣の顔も覚えていない光源氏は、似ているという藤壺に心ひかれ恋い慕っている。
この場面では、この女の子(若紫)が藤壺にとてもよく似ていると気づき、藤壺のことを考えて涙を流している。
※この後、光源氏は藤壺を関係をもち子(冷泉帝)までできてしまう。桐壺帝に隠れて関係をもったことに、藤壺と光源氏は苦しむことになる。
・尽くし聞こゆる人に、いとよう似奉れる…謙譲の補助動詞。光源氏(作者)から藤壺女御への敬意。
※光源氏の心中なので、「光源氏から」ととれるが、「作者から」とすることもある。
・まもる…じっと見つめる