さやけき影をまばゆく思し召し つるほどに、
(帝は)明るい月の光を、まぶしくお思いになっているうちに、
・さやけし…明るい。はっきりしている。
月の顔にむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、「わが出家は成就するなり けり。」と仰せ られて、
月にむら雲がかかって、少し暗くなっていったので、「私の出家は成就するのだなあ。」とおっしゃって、
○先ほどまで月が明るくこっそりと抜け出すのに不都合だったが、雲がかかり暗くなってきたので、自分はこのまま出家する運命なのだと悟った。
歩み出でさせ 給ふほどに、弘徽殿の女御の御文の、日ごろ破り残して御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、
歩み出しなさった時に、亡き弘徽殿の女御のお手紙で、普段破り捨てずに残しておいて御身から離さずご覧になっていたお手紙をお思い出しになって、
・弘徽殿の女御…花山天皇が寵愛していた女御。この女御を亡くした悲しみが、出家のきっかけにもなったといわれる。
・破り残して…ものを処分するときにも、この女御のお手紙だけは捨てずに大切にしていた。
・思し召し出づ…「思ひ出づ」の尊敬語。
「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、
「ちょっと待て。」とおっしゃって、取りにお戻りになった時ですよ、
粟田殿の、「いかにかくは思し召しなら せ おはしまし ぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来 な む。」と、そら泣きし給ひけるは。
粟田殿が、「どうしてそのようにお考えになってしまわれるのですか。この機会を逃したならば、きっと自然と差し障りも生じて参りましょう。」と、うそ泣きなさったのは。
・おのづから…自然と
・障り…差しさわり、妨げ。
○粟田殿はなんとしても今夜のうちに花山天皇を出家させようと、噓泣きをした。
さて、土御門より東ざまに率て出だし参らせ 給ふに、晴明が家の前を渡らせ 給へば、
さて、(粟田殿が)土御門大路を東の方へ(花山天皇を)お連れ出し申し上げなさった時に、安倍晴明の家の前をお通りになると、
・率る…引きつれる。
・安倍晴明…有名な陰陽師(日時や方角、人事などの吉凶を占う)。
自らの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王おりさせ 給ふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。
晴明自身の声で、手をしきりにぱちぱちとたたいて、「帝がご退位なさると思われる天変が現れたが、すでに事は定まってしまったと思われるなあ。
参りて奏せ む。車に装束とうせよ。」と言ふ声、聞かせ 給ひ けむ、さりともあはれには思し召し けむかし。
参内して奏上しよう。車に支度を早くせよ。」と言う声をお聞きになった(帝の)お気持ちは、そうはいっても、(天皇は)しみじみと悲しくお思いになったことでしょうよ。
・奏す…(天皇・上皇に)申し上げる。 ※対象が必ず「天皇・上皇」と決まっている。
・とうせよ…「とくせよ」のウ音便。「とく」は形容詞「疾し(はやい)」の連用形。
・さりとも…そうはいっても。
※ここでは「退位して出家する覚悟をしているとはいっても」ということ。
「かつがつ、式神一人、内裏に参れ。」と申しければ、
(晴明が)「とりあえず、式神一人宮中へ参上せよ。」と申しましたところ、
・式神…陰陽師が使役する神。目には見えない。
目には見えぬものの、戸を押しあけて、御後ろをや見参らせ けむ、
目には見えない何ものかが、戸を押し開けて、(帝の)御後ろ姿を見申し上げたのでしょうか、
・目には見えぬもの…安倍晴明が使役した式神。
「ただ今、これより過ぎさせ おはします めり。」といらへけるとかや。その家、土御門町口なれ ば、御道なり けり。
「ただ今、ここをお通りになっていかれるようです。」と答えたとかいうことです。その家は、土御門大路と町口小路が交差する辺りですから、(帝のお通りになる)御道筋であったのですよ。
・これより…「より」は「~を通って」という意味。
・いらふ…返事をする。