『こころ』①そのうち年が暮れて春になりました。~

 そのうち年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKにかるたをやるから誰か友達を連れてこないかと言ったことがあります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。往来で会った時挨拶をするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決してかるたなどをとる柄ではなかったのです。奥さんはそれじゃ私の知った者でも呼んできたらどうかと言い直しましたが、私もあいにくそんな陽気な遊びをする心持ちになれないので、いいかげんな生返事をしたなり、うちやっておきました。ところが晩になってKと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。客も誰も来ないのに、内々の小人数だけでとろうというかるたですからすこぶる静かなものでした。そのうえこういう遊技をやりつけないKは、まるで懐手をしている人と同様でした。私はKにいったい百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いたお嬢さんは、おおかたKを軽蔑するとでもとったのでしょう。それから目に立つようにKの加勢をしだしました。しまいには二人がほとんど組になって私に当たるというありさまになってきました。私は相手しだいではけんかを始めたかもしれなかったのです。幸いにKの態度は少しも最初と変わりませんでした。彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り上げることができました。

 それから二、三日たった後のことでしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ケ谷にいる親類の所へ行くと言ってうちを出ました。Kも私もまだ学校の始まらない頃でしたから、留守居同様あとに残っていました。私は書物を読むのも散歩に出るのも嫌だったので、ただ漠然と火鉢の縁に肘をのせてじっとあごを支えたなり考えていました。隣の部屋にいるKもいっこう音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分からないくらい静かでした。もっともこういうことは、二人の間柄として別に珍しくもなんともなかったのですから、私はべつだんそれを気にもとめませんでした。

 十時頃になって、Kは不意に仕切りの襖を開けて私と顔を見合わせました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えているとききました。私はもとより何も考えていなかったのです。もし考えていたとすれば、いつものとおりお嬢さんが問題だったかもしれません。そのお嬢さんにはむろん奥さんもくっついていますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐる巡って、この問題を複雑にしているのです。Kと顔を見合わせた私は、今までおぼろげに彼を一種の邪魔者のごとく意識していながら、明らかにそうと答えるわけにいかなかったのです。私は依然として彼の顔を見て黙っていました。するとKのほうからつかつかと私の座敷へ入ってきて、私のあたっている火鉢の前に座りました。私はすぐ両肘を火鉢の縁から取りのけて、心持ちそれをKの方へ押しやるようにしました。

 Kはいつもに似合わない話を始めました。奥さんとお嬢さんは市ケ谷のどこへ行ったのだろうと言うのです。私はおおかた叔母さんの所だろうと答えました。Kはその叔母さんはなんだとまたききます。私はやはり軍人の細君だと教えてやりました。すると女の年始はたいてい十五日過ぎだのに、なぜそんなに早く出かけたのだろうと質問するのです。私はなぜだか知らないと挨拶するよりほかにしかたがありませんでした。

問 「私もあいにくそんな陽気な遊びをする心持ちになれない」とあるが、それはなぜか。
A お嬢さんへの恋を打ち明けることができないでいる一方で、Kとお嬢さん親しそうにしていることに嫉妬を感じ、重苦しい気持ちになっていたから。

問 「私は相手しだいではけんかを始めたかもしれなかった」とあるが、「私」は何に対してこう感じたのか。

A お嬢さんが目に立つようにKに加勢し、二人が組になっていること。

問 「私は相手しだいではけんかを始めたかもしれなかった」とあるが、なぜ「けんか」をせずにすんだのか。
A お嬢さんが加勢した後も、最初と変わらずKの態度に少しも得意らしいところがなかったから。
Kは少しも嬉しそうな様子や、誇らしげな様子をみせなかった。もし見せていたら「私」は怒りをあらわにしただろう。

問 「それを気にもとめませんでした。」とあるが、①「それ」とは、何を指すか。また、②なぜ、気にもとめなかったのか。

A ①隣の部屋にいるKが全く音を立てないでいること。 
  ②静かなことは、二人の間柄として、別に珍しくなかったから。

問 「近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐる巡って、この問題を複雑にしている」とあるが、①「切り離すべからざる」を分かりやすく言いかえよ。 ②「この問題」とは何か。

①切り離して考えることができない。
②「私」がお嬢さんに恋をしており、お嬢さんに求婚しようとすること。
※当時(明治)、民法の規定では、結婚には父母の同意が必要とされた。お嬢さんの父は戦死していたため、母の同意が必要だった。結婚にはお嬢さんの気持ちだけでなく、母の意向も考えなければならなかった。
 近頃はお嬢さんとKが親しげにしており、この問題を考えるときにKのことも意識され、さらに複雑になったのです。

問 なぜ「明らかにそうと答えるわけにいかなかった」のか。

A 昔からの親しい友であり、下宿に引き取って世話をしている「私」が、邪魔者だとはっきり言うことははばかられたから。

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