黔無驢。有好事者。船載以入至則無可用。放之山下。
黔に驢無し。好事者有り、船に載せて以つて入る。至れば則ち用ゐるべき無く、之を山下に放つ。
黔州には驢馬がいなかった。物好きな者がいて、船に乗せて(黔州に)連れて来た。連れて来たが、使い道がないので、山のふもとに放った。
・好事者…物好きな者。
・則…「すなはチ」…~すると、~すれば。 ※特に訳さないことが多い。
虎見之尨然大物也。以為神。蔽林間窺之。
虎 之を見るに、尨然として大なる物なり。以つて神と為し、林間に蔽れて之を窺ふ。
虎が(初めて)驢馬を見ると、大変大きいものであった。神(不思議な力を持つもの)であると思い、林の中に隠れてそれをうかがった。
・以為神…神だと思う。
○以為~…「以つて~と為す」だと思う。※「以為ヘラク~」とも読む。
○以A為B「Aを以てBと為す」AをBだと思う、みなす。
稍出近之、憖憖然莫相知。
稍く出でて之に近づくに、憖憖然として相知る莫し。
しだいに出ていって驢馬に近づいて、用心深く見たが相手のことがよくわからない。
・稍…だんだん、しだいに。
・憖憖然…慎み深く見る様子。
・相…相手を。 ※「互いに」という意味もあるが、ここは違う。
・莫…「無」と同じ。
他日驢一鳴。虎大駭遠遁、以為且噬己也、甚恐。
他日、驢 一たび鳴く。虎 大いに駭き、遠く遁れ、以つて且に己を噬まんとすと為し、甚だ恐る。
ある日、驢馬が一声鳴いた。虎はとても驚き、遠く逃げた。自分を嚙もうとしていると思って、非常に恐れた。
・他日…ある日
・且噬己…自分を噛もうとしている。
※且…再読文字「且に~んとす」(今にも)~しようとする。
・甚…「はなはダ」非常に。
然往来視之覚無異能者。
然れども往来して之を視るに、異能無き者に覚ゆ。
しかし、近づいたり離れたりしながら観察してみると、特異な能力はなさそうに思える。
・異能…特異な能力。
○虎は、初めて見る動物である驢馬を非常に恐れたが、だんだん慣れてきた。
益習其声、又近出前後、終不敢搏。
益其の声に習れ、又近づきて前後に出づれども、終に敢へて搏たず。
(虎は)ますますその声に慣れて、さらに前や後ろに近づいてみたが、(驢馬は)最後までつかみかかろうとはしなかった。
・益…「ますます」
・終…「つひニ」最後まで、とうとう。
・不敢~…「敢へて~ず」(進んでは)~しようとはしない。
※「決して~しない。」と訳すこともある。
稍近益狎蕩倚衝冒。驢不勝怒蹄之。
稍く近づきて益狎れ、蕩倚し衝冒す。驢 怒りに勝へず、之を蹄る。
(虎は)だんだん近づいて、ますます慣れて、体をすりつけたりぶつけたりした。驢馬は我慢できず、虎を蹴った。
・不勝~…「~に勝へず」~に耐えきれない。
・「蕩」は好き放題。「倚」は寄りかかる。「衝」はつきかかる、ぶつかる。「冒」は犯す。
虎因喜計之曰、「技止此耳。」因跳踉大闞断其喉尽其肉乃去。
虎 因りて喜び、之を計りて曰はく、「技 止だ此れのみ。」と。因りて跳踉して大いに匯え、其の喉を断ち、其の肉を尽くして、乃ち去る。
虎はそれで喜んで、驢馬を推し量って言うことには「技はただこれだけだ。」と。それによって、跳びかかり、大声でほえ、驢馬の喉を食いちぎり、肉を食い尽くしてやっと去った。
・止~耳…「止だ~のみ」ただ~だけ。
〇「耳」は「のみ」と読み、限定・強調(~だけだ)の働き。
○驢馬が怒って蹴ったことで、虎は驢馬にたいした力がなく、自分でも勝てると分かった。
噫、形之尨也、類有徳、声之宏也、類有能。
噫、形の尨なるや、徳有るに類し、声の宏なるや、能有るに類す。
ああ、形の大きなものは徳があるようで、声の大きなものは能力があるようだなあ。
・噫…ああ~(だなあ)。
向不出其技、虎雖猛疑畏卒不敢取。
向に其の技を出ださざれば、虎猛なりと雖も、疑ひ畏れ、卒に敢へて取らざらん。
あのとき、技を出さなかったら、虎が獰猛だとはいっても、疑い恐れて、最後まで襲いかかろうとはしなかっただろう。
・向…「さきニ」以前、さきほど。 ここでは「あのとき」などとと訳しておく。
・雖~…「~と雖も」~とはいっても。
・卒…「つひニ」最後まで、とうとう。
今若是焉。悲夫。
今是くのごとし。悲しいかな。
今このようになってしまった。悲しいことだなあ。
・若是…「是くのごとし」このようである。
※驢馬が技を見せたことで、虎に能力を知られてしまい食われてしまったことを指している。
・~夫…「~かな」~だなあ。
○力のある強い相手に対しては、自分の技を安易に見せてはならず、慎重に用心深く対応するべきであるという教訓。
作者は柳宗元(773~819年)。政治革新運動に参加したが失敗し、左遷された。
本文は世の人の愚かさを憎んで書いたという三編の訓戒(いましめ)の文章のうちの一つだが、自身への反省や後悔も含まれていると思われる。