司馬遷『史記』刺客列伝「荊軻(けいか)」から、「風蕭蕭として易水寒し」前半の書き下し文・現代語訳・解説です。
燕(えん)の太子丹(たいしたん)は、秦王(のちの始皇帝)とは幼なじみでしたが、人質として秦にいたとき、秦王から冷たく扱われました。丹は燕に逃げ帰り、秦への復讐を考えるようになります。そのころ秦は他国への侵略を続け、燕の国境近くにまで迫っていました。そこで太子丹は、衛の人である荊軻に秦王の暗殺を頼みます。
荊軻は、秦王に近づくための手土産として、秦から燕に亡命していた樊於期(はんおき)将軍の首と、燕の肥えた土地である督亢(とくこう)の地図を用意しました。この場面は、その後、いよいよ荊軻が秦へ旅立つところです。
続きは荊軻②です。
書き下し文・現代語訳・解説
毒を塗ったあいくち
白文於是太子予求天下之利匕首、得趙人徐夫人匕首、取之百金。
書き下し是に於いて太子予め天下の利なる匕首を求めて、趙人徐夫人の匕首を得、之を百金に取る。
現代語訳さて、太子は前もって天下で最も鋭いあいくちを探し求めて、趙の人である徐夫人のあいくちを見つけ、これを百金という大金で買い取っていた。
- 利なる
- 鋭い。よく切れる。
- 匕首
- あいくち。つばのない短刀。
- 徐夫人
- 人名。徐が姓、夫人が名で、男性とする説がある。
- 百金
- 大金。
白文使工以薬焠之、以試人、血濡縷、人無不立死者。
書き下し工をして薬を以て之を焠がしめ、以て人に試みるに、血縷を濡らせば、人立ちどころに死せざる者無し。
現代語訳刀鍛冶に命じて、毒薬を使ってそのあいくちに焼きを入れさせ、人で試してみると、血が糸筋ほどにじんだだけで、その場で死なない者はいなかった。
- 工
- 職人。ここでは刀鍛冶。
- 焠ぐ
- 焼きを入れる。ここでは毒薬をしみこませて焼きを入れる。
- 縷
- 糸筋。
- 立ちどころに
- すぐに。
白文乃装為遣荊卿。
書き下し乃ち装して為に荊卿を遣はさんとす。
現代語訳そこで、あいくちの外装を整えて、荊軻を秦へ派遣しようとした。
- 乃
- そこで。
- 装
- (あいくちの)外装を整える。旅の支度を整えると解する説もある。
- 荊卿
- 荊軻を敬っていう呼び方。「卿」は敬称。
副使・秦舞陽
白文燕国有勇士秦舞陽。年十三殺人、人不敢忤視。
書き下し燕国に勇士秦舞陽有り。年十三にして人を殺し、人敢へて忤視せず。
現代語訳燕の国に、勇士の秦舞陽という者がいた。彼はわずか十三歳で人を殺しており、人々は恐れて、だれも彼の目を見返そうとはしなかった。
- 忤視
- 正面から相手の目を見返すこと。
- 秦舞陽
- 燕の名将秦開の孫。
白文乃令秦舞陽為副。
書き下し乃ち秦舞陽をして副と為さしむ。
現代語訳そこで(太子は)、秦舞陽を荊軻の副使とした。
- 副
- 副使。補佐役。
太子丹は、秦舞陽を「恐れを知らない勇士」だと評価して、荊軻の補佐役に選びました。
なかなか出発しない荊軻
白文荊軻有所待、欲与俱。
書き下し荊軻待つ所有り、与に俱にせんと欲す。
現代語訳荊軻には到着を待っている人があり、その人と連れ立って秦へ行くつもりでいた。
- 所待
- 待っている人。
- 与俱
- いっしょに行動する。
白文其人居遠未来。而為治行。
書き下し其の人遠きに居りて未だ来たらず。而るに行を治むるを為す。
現代語訳ところが、その人は遠くに住んでいて、まだやって来ない。それでも荊軻は、(その人のためにも、いつでも出発できるように)旅の支度を整えていた。
- 未
- 再読文字。「いまダ~ず」と読み、まだ~しない。
- 治行
- 旅支度を整える。
白文頃之、未発。
書き下し之を頃くするも、未だ発せず。
現代語訳しばらくたっても、荊軻はまだ出発しなかった。
- 頃之
- しばらくして。「頃之」と二字で「しばらくして」と読む教科書もある。
白文太子遅之、疑其改悔。
書き下し太子之を遅しとし、其の改悔せしを疑ふ。
現代語訳太子は、荊軻の出発が遅いのをもどかしく思い、荊軻の気が変わってしまったのではないかと疑った。
- 遅之
- 遅いと思う。もどかしく思う。「之」は荊軻がまだ出発しないこと。
- 改悔
- 心変わりする。(秦王暗殺をやめようとすること)
太子丹は、荊軻がなかなか出発しないので、荊軻が怖じ気づいて秦王暗殺から手を引くつもりなのではないかと疑いました。太子は荊軻を信じ切れずにいたのです。
太子の催促と荊軻の怒り
白文乃復請曰、「日已尽矣。荊卿豈有意哉。丹請得先遣秦舞陽。」
書き下し乃ち復た請ひて曰はく、「日已に尽く。荊卿豈に意有りや。丹請ふ、先づ秦舞陽を遣はすを得ん。」と。
現代語訳そこで太子は、重ねて荊軻に頼んで言った。「もう(待っていられる)日数はなくなりました。荊卿には何かお考えがあるのですか。私としては、どうか先に秦舞陽を遣わさせていただきたいのです。」と。
- 日已尽
- (出発を待てる)日数がもう残っていないということ。
- 豈
- ここでは疑問。「なにか~か」。
- 丹
- 太子丹が自分を名で呼んだもの。
- 請~
- どうか~させてほしい。
白文荊軻怒、叱太子曰、「何太子之遣。往而不返者、豎子也。
書き下し荊軻怒り、太子を叱して曰はく、「何ぞ太子の遣はすや。往きて返らざる者は、豎子なり。
現代語訳荊軻は怒って、太子を大声で叱りつけた。「太子はなぜ、そんな人の遣わし方をなさるのですか。向こうへ行ったきり帰ってこないような者は、ただの青二才です。
- 叱す
- 大声でしかりつける。
- 何
- どうして。(理由を問いつめる疑問)
- 遣
- ここでは、秦舞陽を先に遣わすこと。
- 豎子
- 青二才。未熟者。人をののしっていう語。
白文且提一匕首、入不測之彊秦。
書き下し且つ一匕首を提げて、不測の彊秦に入る。
現代語訳しかも、たった一ふりのあいくちをたずさえて、どう出てくるか予測もつかない強国の秦へ乗り込むのです。
- 且
- そもそも。しかも。
- 提ぐ
- 手にさげて持つ。
- 不測
- 予測できない。何が起こるかわからない。
- 彊秦
- 強国の秦。「彊」は「強」と同じ。
白文僕所以留者、待吾客与俱。
書き下し僕の留まる所以の者は、吾が客を待ちて与に俱にせんとすればなり。
現代語訳私がここに留まっていたわけは、私の友人を待って、いっしょに行こうとしていたからです。
- 僕
- わたくし。自分をへりくだっていう語。
- 所以
- 理由。わけ。
- 客
- ここでは、荊軻が待っていた友人。
白文今太子遅之。請辞決矣。」遂発。
書き下し今太子之を遅しとす。請ふ辞決せん。」と。遂に発す。
現代語訳今、太子は(私の出発が)遅いとお考えです。それならば、どうかこれでお別れさせていただきましょう。」と。こうして荊軻は出発した。
- 之
- 荊軻がまだ出発しないこと。
- 辞決
- 別れを告げる。いとまごいをする。
白い喪服での見送り
白文太子及賓客知其事者、皆白衣冠以送之、至易水之上。
書き下し太子及び賓客の其の事を知る者、皆白き衣冠して以て之を送り、易水の上に至る。
現代語訳太子と、この計画を知っている賓客たちは、みな白い衣服と冠を身につけて見送りに出て、一行は易水のほとりに着いた。
- 賓客
- 客として迎えられ、養われている人。
- 其事
- 荊軻が秦王を暗殺しに行くこと。
- 白衣冠
- 白い衣服と冠。喪服。
- 易水
- 燕の南の国境近くを流れる川。河北省にある。
- 之
- 荊軻(と秦舞陽)を指す。
続きの、易水のほとりでの別れの場面は荊軻②です。
テスト予想問題
A 語句
「匕首」の読みと意味を答えよ。
解答を見る
ひしゅ/あいくち(つばのない短刀)。
「忤視」の読みと意味を答えよ。
解答を見る
ごし/相手の目を正面から見返すこと。
「豎子」の読みと意味を答えよ。
解答を見る
じゅし/青二才。未熟者。
B 書き下し文・現代語訳
「以試人、血濡縷、人無不立死者」を書き下し文にし、現代語訳せよ。
解答を見る
書き下し文:以て人に試みるに、血縷を濡らせば、人立ちどころに死せざる者無し。
現代語訳:(そのあいくちを)人で試すと、血が糸筋ほどにじむだけで、すぐに死なない者はいなかった。「荊卿豈有意哉」を書き下し文にし、現代語訳せよ。
解答を見る
書き下し文:荊卿豈に意有りや。
現代語訳:荊卿には何かお考えがあるのですか。(反語ではなく疑問)「何太子之遣」を書き下し文にし、現代語訳せよ。
解答を見る
書き下し文:何ぞ太子の遣はすや。
現代語訳:どうして太子はそのような(秦舞陽を先に送るという)遣わし方をなさるのか。「僕所以留者、待吾客与俱」を書き下し文にし、現代語訳せよ。
解答を見る
書き下し文:僕の留まる所以の者は、吾が客を待ちて与に俱にせんとすればなり。
現代語訳:私が出発せずにいる理由は、友人を待って、いっしょに行こうとしているからです。
C 内容の読み取り
荊軻がなかなか出発しなかったのはなぜか。
解答を見る
秦王暗殺を確実に成功させるため、いっしょに行くのにふさわしい人物(遠方に住む友人)の到着を待っていたから。
「疑其改悔」とあるが、だれが、どのようなことを疑ったのか。
解答を見る
太子丹が、荊軻の気が変わって、秦王暗殺をやめようとしているのではないかと疑った。
「往而不返者、豎子也」について、①「豎子」はだれのことを言っていると考えられるか。②このことばから、荊軻のどのような思いが読み取れるか。
解答を見る
①秦舞陽
②秦舞陽は秦に行っても任務を果たせず帰ってこない青二才だと見なしてその力を疑い、自分は確実に暗殺をなしとげようとしているのだという自負。荊軻が「請辞決矣」と言ったのは、どのような気持ちからか。
解答を見る
確実に暗殺を成功させるために同行者を待っていたのに、その考えをわかろうとせず心変わりを疑う太子にいらだつ気持ち。
見送りの人々が「白衣冠」で荊軻を送ったのはなぜか。
解答を見る
白い衣冠は喪服であり、秦王暗殺に向かう荊軻は成功しても失敗しても生きて帰れないだろうと考え、最後の別れのつもりで見送ったから。