『無恒産而有恒心(恒産無くして恒心有る)』の書き下し文・現代語訳・句法を解説します。「恒産恒心」「無恒産無恒心」という題で学ぶこともあります。出典は『孟子』(梁恵王上)で、孟子が斉の宣王に王道政治の方法を説いた問答の一部です。
孟子は戦国時代の儒家の思想家で、孔子の「仁」の思想を受けつぎ、民を思いやる「王道政治」を説きました。この文章では、民が正しい心をもつためには、まず生活の安定が必要だと述べています。
書き下し文・現代語訳・解説
恒産と恒心
白文孟子曰、「無恒産而有恒心者、惟士為能。
書き下し孟子曰はく、「恒産無くして恒心有る者は、惟だ士のみ能くするを為す。
現代語訳孟子が言った、「安定した生業がなくても、常に変わらない正しい心をもち続けることは、ただ(学問を修めて道理をわきまえた)士だけができることです。
- 恒産
- 一定の生業。安定した収入・財産。
- 恒心
- 常に変わらない正しい心。
- 而
- 置き字。ここは「~なくても、それでいて」という逆接の気持ちを含む。
- 士
- 学問を修め、道理を身につけた人。
- 惟
- 「たダ」。ただ~だけ。文末の「のみ」と呼応する。
- 為能
- 「能くするを為す」。することができる。
白文若民、則無恒産、因無恒心。
書き下し民の若きは、則ち恒産無ければ、因りて恒心無し。
現代語訳一般の民となると、安定した生業がなければ、そのために常に変わらない正しい心もなくなってしまいます。
- 若民
- 「民の若きは」。民などは。民となると。「若」は「民」から返って読む。
- 民
- 一般の人民。上の「士」と対比されている。
- 則
- 「すなはチ」。~の場合は。
- 因
- 「よリテ」。そのために。それが原因で。
白文苟無恒心、放辟邪侈、無不為已。
書き下し苟しくも恒心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ。
現代語訳もし常に変わらない正しい心がなくなれば、勝手気ままで、よこしまなことでも、しないことは何もなくなってしまいます。
- 苟
- 「いやしクモ」。もし。かりに。仮定を表す。
- 放辟邪侈
- 勝手気ままで、不正な行い。「放」は気まま、「辟」はかたよる、「邪」はよこしま、「侈」はほしいまま。
- 無不為
- 「為さざる無し」。しないことはない。何でもする。
- 已
- 「のみ」。ここでは意味を強める。
民を網にかける
白文及陥於罪、然後従而刑之。
書き下し罪に陥るに及びて、然る後に従ひて之を刑す。
現代語訳(こうして民が)罪を犯すようになってから、そのあとで追いかけて民を刑罰に処します。
- 及
- ~するときになって。
- 陥於罪
- 罪に陥る。罪を犯す。
- 於
- 置き字。
- 然後
- 「しかルのちニ」。そうしたあとで。
- 従
- 追いかけて。それによって。
- 而
- 置き字。
- 之
- 罪を犯した民を指す。
- 刑
- 刑罰に処する。
白文是罔民也。
書き下し是れ民を罔するなり。
現代語訳これは、民を(法の)網にひっかけて捕らえるようなものです。
- 是
- 民が罪を犯してから、刑罰に処すること。
- 罔
- 「あみス」。網をかけて捕らえる。「罔」は「網」と同じ。
白文焉有仁人在位、罔民而可為也。
書き下し焉くんぞ仁人位に在る有りて、民を罔することを而も為すべけんや。
現代語訳仁徳のある人が君主の位にありながら、民を網にかけるようなことを、どうしてしてよいでしょうか、いや、してはならないのです。
- 焉
- 「いづクンゾ」。どうして。
- 焉~也
- 「焉くんぞ~んや」。どうして~だろうか、いや~ない。反語。
- 仁人
- 仁徳を備えた人。
- 在位
- 君主の位にある。
- 可為
- 「為すべけんや」。してよいだろうか。
昔の明君と今の政治
白文是故、明君制民之産、必使仰足以事父母、俯足以畜妻子、楽歳終身飽、凶年免於死亡、然後駆而之善。
書き下し是の故に、明君は民の産を制するに、必ず仰ぎては以て父母に事ふるに足り、俯しては以て妻子を畜ふに足り、楽歳には終身飽き、凶年にも死亡を免れしめ、然る後駆りて善に之かしむ。
現代語訳ですから、昔の英明な君主は、民の生業を定めるときに、必ず、上は父母に十分に仕えることができ、下は妻子を十分に養うことができるようにし、豊作の年にはいつも腹いっぱい食べられ、不作の年にも飢え死にしないようにしてやり、そのうえで民を励まして善い方へ向かわせました。
- 是故
- 「是の故に」。こういうわけで。
- 明君
- 英明な君主。
- 制民之産
- 民の生業を定める。
- 使
- 「しム」。~させる。ここでは「免れしめ」まで全体にかかる。
- 仰~、俯~
- 「仰ぎては~、俯しては~」。上は~、下は~。「仰」と「俯」が呼応している。
- 事
- 「つかフ」。仕える。父母を養う。
- 畜
- 「やしなフ」。養う。
- 楽歳
- 豊作の年。下の「凶年」と対になる。
- 終身
- 一生涯。
- 飽
- 腹いっぱい食べる。
- 凶年
- 不作の年。
- 免於死亡
- 飢え死にを免れる。
- 駆
- 追い立てるように励ます。
- 之
- 「ゆク」。行く。ここでは「之かしむ」と使役に読む。
白文故民之従之也軽。
書き下し故に民の之に従ふや軽し。
現代語訳だから、民が君主の導きに従うのはたやすいのです。
- 之
- 君主が民を善へ導くこと。
- 也
- 「や」。主語を示して強める。
- 軽
- たやすい。
白文今也、制民之産、仰不足以事父母、俯不足以畜妻子、楽歳終身苦、凶年不免於死亡。
書き下し今や、民の産を制するに、仰ぎては以て父母に事ふるに足らず、俯しては以て妻子を畜ふに足らず、楽歳にも終身苦しみ、凶年には死亡を免れざらしむ。
現代語訳ところが今は、民の生業を定めるのに、上は父母に十分に仕えることができず、下は妻子を十分に養うことができず、豊作の年でも一生苦しみ、不作の年には飢え死にを免れないようにしています。
- 今也
- 「今や」。今は。ここでは今の諸侯(相手の王)の政治を指す。
- 不足以~
- 「以て~に足らず」。~するのに十分ではない。
白文此惟救死而恐不贍。
書き下し此れ惟だ死を救ひて而も贍らざるを恐る。
現代語訳これでは、民はただ飢え死にを逃れようとするだけで、それでも(食べ物が)足りないことを心配するばかりです。
- 救死
- 死を食い止める。飢え死にを逃れようとする。
- 贍
- 「たル」。足りる。十分にある。
白文奚暇治礼義哉。」
書き下し奚ぞ礼義を治むるに暇あらんや。」と。
現代語訳どうして礼義を身につける余裕などありましょうか、いや、ありはしません。」と。
- 奚~哉
- 「奚ぞ~んや」。どうして~だろうか、いや~ない。反語。
- 治礼義
- 礼義を修める。身につける。
- 暇
- 「いとま」。ゆとり。余裕。
テスト予想問題
A 語句
次の語の読み(送り仮名を含め、現代仮名遣いのひらがな)を答えよ。
①惟
②若(民)
③苟
④然後
⑤焉解答を見る
①ただ
②ごときは
③いやしくも
④しかるのちに
⑤いずくんぞ次の語の、本文中での意味を答えよ。
①恒産
②恒心
③放辟邪侈
④楽歳解答を見る
①一定の生業(安定した収入・財産)
②常に変わらない正しい心
③勝手気ままで、不正な行い
④豊作の年
B 書き下し文・現代語訳
「無恒産而有恒心者、惟士為能」を書き下し文にし、現代語訳せよ。
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書き下し文:恒産無くして恒心有る者は、惟だ士のみ能くするを為す。
現代語訳:安定した生業がなくても、常に変わらない正しい心をもち続けることは、ただ士だけができることだ。「苟無恒心、放辟邪侈、無不為已」を書き下し文にし、現代語訳せよ。
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書き下し文:苟しくも恒心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ。
現代語訳:もし常に変わらない正しい心がなくなれば、勝手気ままで不正なことでも、しないことは何もない。「焉有仁人在位、罔民而可為也」を書き下し文にし、現代語訳せよ。
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書き下し文:焉くんぞ仁人位に在る有りて、民を罔することを而も為すべけんや。
現代語訳:仁徳のある人が君主の位にありながら、民を網にかけるようなことを、どうしてしてよいだろうか、いや、してはならない。「奚暇治礼義哉」を書き下し文にし、現代語訳せよ。
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書き下し文:奚ぞ礼義を治むるに暇あらんや。
現代語訳:どうして礼義を身につける余裕があろうか、いや、ありはしない。
C 内容の読み取り
孟子は「士」と「民」とをどのように区別しているか。「恒産」「恒心」の語を使って説明せよ。
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士は、恒産がなくても恒心を保つことができる。民は、恒産がなければ、そのために恒心もなくなってしまう。
「是罔民也」の「是」が指す内容を明らかにして、どういうことか説明せよ。
解答を見る
「是」は、民が罪を犯してから刑罰に処すること。民の生活を安定させずに罪を犯させておいて罰するのは、網を張って民を追い込み捕らえるようなものだということ。
昔の明君は、民の生業をどのように定めたか。また、その結果、民はどうなったか。
解答を見る
上は父母に十分仕え、下は妻子を十分に養え、豊作の年には腹いっぱい食べられ、不作の年にも飢え死にしないように定めた。そのうえで善に導いたので、民はたやすくそれに従った。
この文章で、孟子は王にどのようなことを説いているか。今の政治の問題点にもふれて説明せよ。
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今の政治では、民は生きるのに精いっぱいで礼義を身につける余裕がない。民は恒産がなければ恒心をもてないので、王はまず民の生活を安定させ、そのうえで善に導くべきだと説いている。