今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち、宵のつれづれに、「いざ、かいもちひせむ。」と言ひけるを、この児、心よせに聞きけり。
昔、比叡山の延暦寺に児がいた。僧たちが宵の所在なさに「さあ、ぼたもちを作ろう。」と言ったのを、この児は期待して聞いた。
・比叡…延暦寺のこと。「児」は寺で雑用などをする少年。
・いざ…さあ
・宵…夜に入って間もないころ。
・つれづれ…所在なさ。することがなくて退屈なこと。
・心寄せ…期待すること。
さりとて、し出ださむを待ちて寝ざらむも、わろかりなむと思ひて、片方に寄りて、寝たるよしにて、出で来るを待ちけるに、すでにし出だしたるさまにて、ひしめき合ひたり。
そうかといって、出来上がるのを待って寝ないようなのも、きっとよくないだろうと思って、片隅に寄って、寝ているふりをして、でき上がるのを待ったところ、(僧たちは)はやくも作り上げた様子で、騒ぎ合っている。
・さりとて…そうかといって。
・わろかり…よくない。ク活用形容詞「わろし」連用形。
・~合ふ…~し合う、互いに~する。
※「し出だす」=「す」+「出だす」、「出で来」=「出づ」+「来」、「ひしめき合ふ」=「ひしめく」+「合ふ」。二つの動詞がくっついたもので複合動詞と呼び、あわせて一つの動詞として扱うことが多い。
この児、さだめておどろかさむずらむと、待ちゐたるに、僧の、「もの申し さぶらはむ。おどろか せたまへ。」と言ふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへむも、待ちけるかともぞ思ふとて、いま一声呼ばれていらへむと、念じて寝たるほどに、
この児が(僧たちは)きっと起こそうとするだろうと待っていると、僧が「もしもし。お目覚めください。」と言うのを、(児は)うれしいとは思うけれども、たった一度で返事するとしたら、待っていたのかと(僧たちが)思うといけないと思って、もう一声呼ばれて返答しようと我慢して寝ているうちに
・さだめて…きっと
・おどろかす・・・起こす、目を覚めさせる。
・~むずらむ…~だろう
・もの申しさぶらはむ…もしもし。
・おどろく・・・目を覚ます。
・~たまふ…~なさる、お~になる。尊敬の意を示す。
・いらふ…返事をする
・もぞ~…~すると困る、大変だ。
・~とて…~と思って。~と言って。
・念ず・・・我慢する。※サ行変格活用として扱う。
「や、な起こし たてまつりそ。をさなき人は、寝入り たまひにけり。」と言ふ声のしければ、あな、わびしと思ひて、いま一度起こせかしと、思ひ寝に聞けば、ひしひしと、ただ食ひに食ふ音のしければ、ずちなくて、無期ののちに、「えい。」といらへたりければ、僧たち笑ふこと限りなし。
「これこれ、お起こし申し上げるな。幼い人は寝入ってしまわれた。」と言う声がしたので、ああ困ったと思って、もう一度起こしてくれよと、思いながら寝て聞くと、むしゃむしゃとただ食べに食べる音がしたので、しかたなくて、ずっとあとに「はい」と返事をしてしまったので、僧たちは笑うことこの上ない。
・な~そ…~するな。禁止表現。
・~奉る(たてまつる)…~申しあげる。謙譲語で、児に対する敬意を示している。
・あな…ああ
・~かし…~よ。念を押す。
・術(ずち)なし…どうしようもない。つらい。
・無期…長い時間。※仏教用語。